『日本語に主語はいらない』の文法教育史的記述を批判する(2)

前回 http://d.hatena.ne.jp/ramensanst/20150109/1420813235 の続きです。前回は予想以上に多くの方にご覧いただき、ありがとうございました。数日でカウンタが1000まわる経験なんて初めてだったので、かるく動揺しました(火中の栗を拾った?)。

それから10日以上経過しまして、なんだか時期を逸した感はありますが、中途半端なままにしておくのも気になるので、しっかり書ききっておきたいと思います。

さて批判していたのは、以下の文献の、以下の部分でした。

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

「現に文部省(現・文部科学省)お墨付きの学校文法は、上記の大槻文法から橋本文法(1935年)へとバトンタッチされて、明治以来100年以上にわたり延々と長寿を保ってこられたのである」(金谷2002、p.13)

この箇所について、前回書ききれなかったところを、文法教育史の観点から批判してみたいと思います。

(3)(大槻文法から)橋本文法(1935年)へとバトンタッチされて

橋本進吉の1935(昭和10)年の文献というと、おそらく『新文典別記 上級用』(冨山房)を指すのだと思います。しかし「別記」はあくまで教師用の参考書です。もし学校における文法教育を論じたいのなら、教科書である『新文典 上級用』(1933(昭和8)年)、あるいは『新文典 初級用』(1931(昭和6)年)を参照したほうがいいと思います(「初級用」の方が口語編で、今日の学校文法により深くかかわりますし)。

また、これは意外と広まってしまっている誤解だと思うのですが、橋本文法がそのまま現在の学校文法につながるわけではありません。たとえば、橋本は研究上すでに単独の品詞としていた連体詞を、『新文典』には提示していません。その理由を、橋本は以下のように述べます。

「あらゆる」「いはゆる」や口語の「この」「その」「あの」のやうな語は、現代語としては、理論上それぞれ一つの単語と見るべきであつて、(中略)これが為に新たな品詞を立てるべきであるとの説があります。この説は理論上正当ですが、まだ広く行はれて居りませんから、本書では、之に従はず(後略)橋本進吉(1935)『新文典別記 上級用』冨山房、p.8)

橋本は「理論上正当」とされる説も、「まだ広く行はれて」いないこと、つまり教育の文脈における学習者のレディネスに配慮して、あえて提示しない配慮をしています。『新文典』は意外にも、このような教育上の配慮がなされた教科書でもあります。

 品詞分類に連体詞が取り入れられるのは『新文典』より後の話です。正確な時期まではわたしも確認できていませんが、確実なのは文部省(1943)『中等文法』以降です。やはり、直接的に現在の学校文法につながるのは『新文典』より『中等文法』と考えたほうがよさそうです。橋本文法がそのまま『新文典』の内容になっているわけではありませんし、橋本文法がそのまま現在の学校文法になっているわけでもない、という点は確認しておきたいと思います。

(4)「明治以来100年以上にわたり延々と長寿を保ってこられたのである」

前回も書きましたが、「明治以来100年以上にわた」って「学校文法」という不変の存在があるわけではありません。上で見たように、品詞分類一つとっても、連体詞を立てるかどうかや、またほかには形容動詞を立てるかどうか、数詞を立てるかどうかといった問題について、教科書のレベルでもさまざまな議論がありました(明治期の文法教科書がどういう品詞分類を行っていたかは矢澤(2006)に詳しいです)。

ついでに言えば、悪妙高い活用表にも、明治時代には今と違ったものがありました。大槻文彦(1890/明治23)『語法指南』は、「裁断言」(今日でいうところの終止形)について、「用言ノ本体」であることを理由に、活用表のいちばん上におきます。また「裁断言ノ下ニ「ゆくべし」ナドアリテハ、連ル所アリテ、裁断トイフ意ニ合ハズ」といった理由から、その名称も「第一変化、第二変化、……第五変化」と単純なナンバリングに改めています(三七ページ)。つまり、従来の「将然、連用、裁断……」という名称は、動詞の基本形が真ん中に来たり、名称が実態にそぐわないところがあったりという問題があるので、配置順や名称を改めたということです。このように、活用表についても、明治時代には今とまったく違うものが示されることがありました。「学校文法」は一枚岩の存在ではないのです。

ちなみに、大槻の活用表が受け入れられなかった理由としては、やはり「わかりにくい」ことがあげられると思います。「第一活用」というより、多少不正確でも「裁断言」とか「終止形」とか言ったほうがイメージしやすいでしょう。また江戸時代からの伝統的な「将然・連用・裁断・連体・已然」という活用体系における「将然」と「已然」、「連用」と「連体」のシンメトリーが壊れてしまうのももったいないです。ただこれは現在の学校文法も同じ(「未然」に「仮定」?)なので、なんともいえませんが……。

まとめると、学校文法は「明治以来100年以上にわたり延々と長寿を保って」などいません。『中等文法』から大きな断絶がないという点で、「終戦以来70年以上にわたり延々と長寿を保って」きたというならわかりますが……。学校文法にかなり大きな理論的不備があるのはわかりますが、だからといって、確認せずイメージで批判するのはやめていただきたいです。批判までそういう状態だと、学校文法の改善もさらに遠い先の話になってしまうのではないかな、と……。

【参考文献】
矢澤真人(2006)「三土忠造『中等国文典』の改訂について―数詞・活用・形容動詞の扱
いを中心に―」『筑波日本語研究』11、筑波大学人文社会科学研究室、pp.1-29